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大泉寺の歴史

源氏ゆかりの寺 大泉寺の歴史
~源氏一門 阿野全成の館跡~

愛鷹(あしたか)山麓に沿って沼津から富士へ抜ける根方街道も、沼津市の西境の井出のあたりまでくると、今でも純農村的風景が展開する。その東井出でもひときわ縁が深いのが士詠山大泉寺である。
開基は法華院殿阿野法橋全成(ほっけいんでんあのほうきょうぜんじょう)である。牛若丸と弁慶の話は誰でも知っているが、源頼朝に今若丸(いまわかまる)という異母兄弟がいたことは余り知られていない。この今若丸がのちの阿野全成である。牛若と今若は源義朝と常磐の間に生まれ、平治の乱で義朝が敗北したあと寺に預けられたのも同じなら乱暴者で名が通っていたのも同じである。今若は醍醐の悪禅師とも呼ばれ、治承四年(1180)頼朝挙兵後その傘下に加わり、源平の争乱後駿河の阿野荘(沼津市今沢から富士市吉原にかけてを阿野庄と言った)を賜って阿野全成と呼ばれるようになる。
北条時政の娘と結婚し、現在の大泉寺あたりに館を建てその一隅に持仏堂を造り源氏一門の霊を慰めたのが寺の始まりで、最初は真言宗であったという。
建仁三年(1203)全成は謀反の疑いをかけられて鎌倉で捕えられ、常陸に流されたのち切られる。切られた首が空を飛んで帰り、門前の松に懸かったという「首懸け松」の口承が残っている。
さらに、承久元年(1219)全成の子時元が深山に城を築き兵を集めているということで、幕府の派遣した金窪成親らの追討を受け滅ぼされたのは、三代将軍実朝が頼家の子公暁によって暗殺されてわずか十数日後のことである。ここに源氏は嫡流も庶流も断絶し、執権北条氏の天下となる。

そして、阿野全成父子は大泉寺の墓地で八百年の眠りにつく。北条氏の野望に陥れられたのか、源氏の主導権回復を積極的に狙っていたのか今となってはわからない。
義経は一人として知らぬ者はいないが、その兄にあたる全成が無名に終るのには訳がある。それは、頼朝が大変疑い深い男で、自分に取って代わりそうな可能性のある源氏一族をつぎつぎに滅ぼしていっており、全成としては幕府政治などから身を引いて保身をはかっていたように思われるのである。
本尊は聖観音。はじめ真言宗の寺であったが、天正年間(1573~92)寺僧永芝が裾野の普明寺六世梁山宗棟を招いて開山として、曹洞宗に転じたという。古文書としては天文五年(1536)と永禄元年(1558)の今川義元の十五石の寺領奇進状や永禄三年の今川氏真・河毛重次の書状を有する。慶長年中(1596~1615)に徳川家康から寺領一六石五斗の朱印状を受け、江戸時代を通して認められていた。

大泉寺パンフレット2021 表面

パンフレット 裏面 2022

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